向洋技研、本田宗一郎から学んだ/自らの道を切り拓く


溶接機を手にする甲斐社長

溶接機を手にする甲斐社長


 モノづくりには欠かせない存在である溶接機。金属などの素材と素材をつなげる役割がある。相模原市中央区田名に、世界20ヶ国以上に溶接機を輸出している小さなメーカーがある。向洋技研の「テーブルスポット溶接機」は1988年の発売以降、ロングセラーとなり、今や世界中のモノづくりを支えている。創業者は甲斐美利社長(69)。かつて、故本田宗一郎氏(ホンダ創業者)から教えを受けた人物でもある。自分の道は自分で切り拓く。まさにそんな生き方をしてきた甲斐社長。モノづくりに対するチャレンジ精神は、本田氏から受け継いだ魂なのかもしれない(千葉 龍太)

■ホンダロック

 甲斐社長は、日向灘をのぞむ宮崎・延岡の出身。延岡工業高校を卒業後、地元に設立されたばかりの部品メーカー、ホンダロックに第1期生として入社した。
 同社は本田氏が私財を投じてつくった企業。大ヒットした2輪車「スーパーカブ」のスイッチ部分を手掛けるのが、主力だった。
 ホンダにとって縁もゆかりもない宮崎の地。南九州は温暖で精密工業が育たないとも言われていた。しかし、あえて宮崎を選び、製造業を根付かせたいというのが本田氏の意向だった。
 入社した甲斐社長が最初に任されたのが熱処理だったが、生産技術なども担当した。
 甲斐社長は当時、本田氏が若い社員に対し、よく口にしていた言葉を覚えている。
 「君たちの定年は30歳だと思え。あとは独立しなさい」
 言い換えれば、ホンダで10年学んで一人前になれなければ、その先も難しい。本田氏は続けた。「腕を磨いて独立すれば、いくらでも仕事を出してやる」。

■国産品の開発

 入社して3年が過ぎたとき、転機が訪れる。埼玉・朝霞の本田技術研究所に出向を命じられる。
 本田氏直属の開発プロジェクトに、メンバーとして抜擢されたためだ。
 1960年代、ホンダは過酷なオートバイレースとして世界的に知られる「マン島TTレース」に参戦。連勝を重ねていたが、バイクの心臓部といえるカムチェーンだけは英国製だった。
 「純国産で世界一になっていない」
 すべての部品が〝メイド・イン・ジャパン″であることが、本田氏の悲願だった。
 そこでグループから精鋭を集め、プロジェクトを編成。純国産品の開発に乗り出した。メンバー最年少の21歳だった甲斐社長は、金型設計を託された。
 プロジェクトは7人。本田氏から直接教えを受けながら、苦心して開発に取り組んだ。甲斐社長も設計技術を吸収した。
 こうした努力が実り、ついにカムチェーンの開発にこぎつけた。だが、喜びもつかの間、ほぼ同じ時期に、チェーンを必要としない、画期的なタイミングベルトが海外で開発されたのだ。まもなくプロジェクトの解散が決まった。甲斐社長は26歳になっていた。

■相模原で起業

 宮崎に戻るか、どうするか―。プロジェクト解散で迷いが生じた。そんなとき、頭をよぎったのは、本田氏の「30歳で独立しなさい」という言葉。
 甲斐社長は振り返る。
 「自分がこれまで学んできた技術を試したいという思いが強くなりました。だったら、ホンダから仕事をもらおうと考え、独立を視野に入れ退社することにしました」
 兄・重利氏が、相模原市内で音響機器の部品製造会社をやっていた。その縁で、相模原に移転。仕事を手伝いながら、独立の準備を進めた。
 こうして76年、機械設計事務所として「向洋技研」を設立した。事務所は六畳一間。昼間は営業で工業団地を回り、夜になると図面を書く生活が続いた。
 そんななか、埼玉にいた知人から、ある相談が持ちかけられる。
 内容は、コピー機の用紙を入れるワゴンの溶接についてだった。ワゴンは、いわば〝大きな箱″。内部の奥深い部分を溶接するには、手が届かないため、作業者が身体を乗り出して行わなければならない。
 1日に数百個つくる場合は、大変な重労働。品質も安定しない。
 甲斐社長が思いついたのは、卓上での溶接作業。大きなテーブルの上で作業ができるような溶接機だ。これなら、作業者の負担が軽減できる―。

■卓上型溶接機

 こうして甲斐社長は、自ら考案した「テーブルスポット溶接機」の開発に着手。そして88年、大阪で開かれた展示会に出展した。
 「これを使えば、誰でも負担なく美しい溶接ができます」
 甲斐社長は来場者に説明した。反響は凄まじかった。「溶接業界にとって100年ぶりのセンセーショナルな製品だ」と評価する声もあり、その場で注文ももらった。
 ただ、一方で、「あれはいかさまだ」「品質が安定しない」と揶揄(やゆ)する関係者もいた。
 甲斐社長は言う。「しばらくは評価してくれる意見と、批判する意見があり、普及は一進一退でしたね」と。
 それでも、時間とともに、ほとんどが賞賛の声に変わった。今や世界中で普及するまでに。
 自ら編み出したテーブルスポット溶接機で、新しい市場を築いてきた甲斐社長。自分の道は自分で切り拓くものだ。
 会社を退社したときも、溶接機の開発に乗り出したときも、決して先は見えなかった。不安と戦った。それでも、チャレンジする道を選んだ。
 本田氏から学んだ〝ホンダイズム″は、相模原の向洋技研にも受け継がれている。(2013年8月20日号掲載)


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