大栄フーズ、震災乗り越え「第二創業期」/日本食を世界へ広めたい


「後身の育成に努める」と話す岡社長

「後身の育成に努める」と話す岡社長


 2008年に「中華くらげ」や「とびっこ」がモンドセレクションで金賞を受賞した大栄フーズ(相模原市南区相武台)。創業者の岡康人社長(73)は、「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と語る。27歳で同社を創業し、時代の流れに敏感な経営を続け、ヒット商品を生み出した。その後は、「日本食を世界に広めたい」と、海外へ事業展開した。しかし東日本大震災で、生産拠点を一瞬で失った。懸命の努力で震災を乗り越え、同社の製品は、世界の空へ羽ばたいていく。        (芹澤 康成/2014年8月10日号掲載)

 ■社会で秀才に

 岡社長は1941年7月7日、広島県尾道市に生まれた。高校教師だった父の背中を見て育ったが、高校時代から「将来は経営者になりたい」と、夢を描いていたという。

 地元の県立高校を卒業後、山口県の水産大学校へ進学。手に職をつけようと、航海士を目指した。当時は、60年安保闘争など学生運動が盛んで、「学業での秀才よりも、企業社会での秀才になりたい」と考えていたという。

 岡社長は大学卒業後、都内の海運会社に就職。石油タンカーなど不定期船を保有する船会社と商社・港などの仲介業務を担当していた。だが、「独立したい」という思いを募らせて退職した。

 創業に向けて、仕事のノウハウを学ぶため都内の水産加工会社に転職。原材料調達に携わった。商品のことは分かっていたが、どのようにして消費者の手に届くのかを知りたくて、営業職への転属を希望した。すると、8カ月でトップセールスとなった。

 独立への自信をつけた岡社長は27歳で、座間市相模台に「大栄フーズ」を創業した。15坪余りの事務所兼工場で、従業員約10人で生産をスタートした。

 創業時の主力業務は、「くらげ」と「魚卵」の加工販売。創業から40年以上経った今でも、主力業務は変わっていない。岡社長は「これからの時代は、水産惣菜がメジャーになっていく」と確信していた。

 ■社長自ら商う

 同社のヒット商品「中華くらげ」は、同社が日本で初めて〝水産惣菜〟として量産化したという。築地の中央卸売市場をはじめ、全国の鮮魚市場に流通させた。

 同社は材料となる塩漬けクラゲを、タイやミャンマーなどアジア諸国から輸入。細くカットし、中華風の味付けをしてパッケージする。

 現在では、全国のスーパーマーケット(スーパー)の惣菜売り場に並ぶ同社の「中華くらげ」だが、「最初は、浸透させることが難しかった」と岡社長は振り返る。

 「創業当時、そんな会社は知らない、まともな値段では売れないと言われ、勝手に値引きされたこともあった」という。

 岡社長が自ら、スーパーの前で販売したこともある。「東北の農家のおばさんに、クラゲを〝切り干し大根〟と間違われたこともあった」と苦労話を笑う。

 当時は、調理は家庭で行うことが当然だった時代で、「そもそも〝惣菜〟というものがなかった」と岡社長。

 調理が困難な食材を加工済み製品として出荷する同社の〝水産惣菜〟の登場は、その後、日本の食卓に革命をもたらした。

 ■和食を世界へ

 昨年、「和食 日本人の伝統的食文化」がユネスコ無形文化遺産に登録された。

 岡社長は約30年前、大手調味料メーカーの重役の前で「フランス料理やイタリア料理は世界で認められている。日本食も必ず、世界から認められる食文化になる」と持論を展開した。

 大胆な物言いと先見性を気に入られ、大手メーカーとの契約が成立。大栄フーズの製品は、米国など海外へ輸出されることとなった。

 岡社長は「歴史を引合いにだし、日本食は世界のトップになると、大風呂敷を広げた。30年経って、まさか無形文化遺産になるとは思っていなかった」と笑う。

 現在、同社の売り上げの3~4割は輸出だ。海外の「寿司ブーム」もあって、北米や豪州、東南アジアに輸出されている。

 ■第二創業期へ

 2011年3月、東日本大震災が、同社最大の生産拠点だった東北工場(福島県楢葉町)を襲った。全製品の70%を生産していた同工場は、福島第一原発の事故で閉鎖を余儀なくされた。

 主力の「中華くらげ」のシェアを維持するため、同年7月に横浜市保土ケ谷区に横浜工場を新設。相模原工場(南区麻溝台)も改良し、3交代の24時間体制とした。さらに生産品目の40%をカットするなど、懸命な努力でシェアの維持に努めた。

 そして今年7月には、千葉県香取市の小見川産業用地に新工場を完成させた。同所はソニーの工場跡地で、「ウォークマン」発祥の地だった。

 「ウォークマンは、ここから世界中に輸出されていった。同じ海外をターゲットにする企業として、縁を感じた」と岡社長は話す。

 香取工場の稼働で、生産量は震災前に戻る。また、成田空港に近い立地を活かし、地元の市長に「出発便の機内食に、地元製品を売り込みたい」と要請した。今後は、欧州各国への輸出も視野に入れている。

 岡社長はこれを「第二創業期」と位置づけ、これからの会社を支える後身の育成に努めていくと力強く話した。

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