ボード・プランニング、47歳で大学院に入学/異業種と連携で需要創出


大学院に通い目標を持ち続ける大谷社長

大学院に通い目標を持ち続ける大谷社長


 スーパーコンピューターや携帯電話、産業機械などのプリント基板の設計を手掛けるボード・プランニング(相模原市緑区西橋本)。創業者は大谷保憲社長(48)。安定したサラリーマン生活を捨て、独立。小さなアパートから始まった同社は、今や大手電機メーカーからの仕事もこなすまでに成長。そして大谷社長が心に秘めていた「大学で学びたい」という夢を追い、47歳で大学院へ。あくなき向学心を胸に、さらなる飛躍を目指す。  (船木 正尋/2014年5月20日号掲載)

 ■NECに就職

 大谷社長は川崎出身。高校は都内の工業高校へ通った。190センチメートルもの身長を生かし、バスケットボール部に所属し、汗を流した。
 高校3年の時、大学進学か就職かで迷っていた。しかし、家庭の経済状況が厳しかったこともあり、断念した。
 しかし、スポーツだけではなく勉強も優秀だった大谷社長は、NECへの就職を決める。その後、相模原事業所にあるプリント基板のセクションへ配属されることに。この経験が今の会社の基礎をつくることになる。
 CADを使ってプリント基板の設計をしたり、設計データの管理も行っていた。このほか、取引先へ出向き、セールスエンジニアとして営業の現場にも出向いて行った。
 大谷社長は「NECでは、いろんな経験をさせてもらいました。仕事は非常に面白かったですねこの経験がなかったら、今の自分はなかったです」と当時を振り返る。
 順風満帆だったサラリーマン生活だったが、不況の波が押し寄せる。2002年、プリント基板事業が縮小し、他社との合併を決めた。32歳の時にその合併会社へ出向になった。だが、自分の進むべき道はこれなのかと自問自答していた。そんなか会社の先輩からの後押しを受け、独立することを決意する。

 ■相模原で独立

 05年、JR相模線・原当麻駅近くのアパートの一室から始まった。仲間2人との船出だった。
 懇意にしていた会社からの仕事はあったが、ほとんどゼロからのスタートだった。一日数十件も営業に出ることもあった。足が棒になるほどだったという。
 「最初の1年半は辛かったですよ。営業に行っても空振りが多かったですね」
 それでもめげない大谷社長は、粘り強く営業を仕掛けていった。そんな地道な営業が実り、3年もすると業績も順調に伸びて行った。それと同時に従業員も増やした。
 しかし08年にリーマンショックが襲う。取引先からの仕事が一気に減った。
 技術者として他社へ出向していた社員も戻され、最盛期の4分の1に仕事量が減ったのだ。
 そんななか、大谷社長は会社を存続させるために決断をする。
 自分の役員報酬を最低限の額にし、従業員には週休3日にしてもらった。こうした苦肉の策が功を奏し、なんとか窮地を乗り越えた。

 ■EMSに参加

 そして現在、新たな需要を創出しようと、互いの事業領域にない得意分野を補完し、連携する「ベンチャーEMS(電子機器製造受託サービス)」に参加している。今は、4つほどのグループに所属しているという。
 事業領域が重複していないため、各企業で連携し、開発から商品の組み立てまで行うというもの。各企業同士で協力すれば、提案もしやすくなるというメリットもある。既存の電機業界だけではなく医療機械や自動車部品などの分野にも参入したいという。
 大谷社長は「今は、板金、切削などを得意とする企業と組んで福祉業界へと参入する計画を立てています。協力することで互いの刺激にもなりますね」と話す。

 ■学問への情熱

 そして業績も順調に回復してきた13年には、大谷社長は、心に秘めいた夢を実現させることに。それは高校卒業と同時に強くなっていった大学進学への夢だ。
 大谷社長は高校卒業後、すぐにNECに入社した。
 しかし、大学で学問を学びたいという思いは消えなかった。だが、本業が忙しく受験をすることができなかった。「なかなか受験する決心ができませんでした」と。
 そんな大谷社長の背中を押したのは、経営の相談などをしていた相模原商工会議所・工業部会の仲間たちだった。「やりたいことがあるならやれよ」との言葉に腹は決まった。
 本業が終わると寝る暇を惜しんで、専門書を読みあさった。こうした努力の甲斐もあって、13年1月、拓殖大学院地方政治行政研究科の合格通知を獲得した。大谷社長47歳の時だった。
 現在は修士2年。土日は、修士論文の作成で休む暇もないという。
 社長業と大学院生の二足のわらじを履く大谷社長。
 修士論文では相模原を題材に産業集積について分析をしている。大谷社長が積み重ねてきた知識と経験は相模原の地域活性化へとつながっていく。

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