3年ぶりの「北条五代祭り」を訪問/相模原や近隣にも残る史跡


北条ワッペン  戦国時代に関東一円を治めた北条氏五代(伊勢宗瑞=早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直)を称えた武者行列は、2020年から新型感染症の拡大などで中止などとなっていたが、ことしは規模を縮小することで、大型連休中の3日に「北条五代 歴史と文化の祝典」として開かれた。相模原市や近隣地域にもゆかりある史跡が残っていることもあり、自称「歴史好き」の記者がことしのイベントや県立津久井湖城山公園を取材した。

◆感染対策講じ開催

武者行列で馬上の人となった小田原市長

武者行列で馬上の人となった小田原市長



五代祭りは1965年に小田原城の復元を記念して始まり、例年約20万人が訪れる地域最大の観光イベントとなっていた。コロナ禍で2020年はイベントそのものを中止、21年も武者行列を中止するなどの対応をとった。

甲冑を着た市長や市議会議長が武者や姫などに扮した市民らと小田原城付近を約1時間かけて練り歩いた。感染防止策の一つとして武者行列に著名人を招かなかった結果、約13万5千人と例年の6割程度の人出に抑えることができた。

相模原市の石原緑区長=動画から抜粋

相模原市の石原緑区長=動画から抜粋



当日の午前中は三の丸ホールを会場に、静岡大学名誉教授の小和田哲男氏らを講師に招いたシンポジウムなどが開催。開会式には、甲斐(現山梨県)武田氏との戦で前線となった「津久井城」がある相模原市緑区の石原朗区長ら、小田原や北条氏などとゆかりのある自治体関係者も出席した。

「北条五代を大河ドラマに」がテーマ。ことしのNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも北条氏が登場するが、戦国時代の北条氏は「後北条氏」「小田原北条氏」とも呼ばれ、鎌倉幕府執権の北条氏とは家系が異なる。鎌倉北条氏が平貞盛の次男・維将の子孫を称しているが、小田原北条氏は桓武平氏伊勢流(貞盛の四男・維衡の子孫)とする説が有力という。

北条氏は初代宗瑞から5代氏直まで約100年に渡り、伊豆・相模から武蔵や房総など関八州にまで勢力を拡大した。「戦国の世にありながら家督争いがなく、それぞれの兄弟や家臣団が当主を支えた」(小和田氏)としている。

シンポジウムに参加した相模原市内在住の30代男性は「後北条氏が大河ドラマになれば、同じく北条氏の城があった八王子市などと連携して津久井城を観光資源にできるのでは」と話していた。

◆相模原に残る史跡

津久井城の俯瞰図=資料から抜粋

津久井城の俯瞰図=資料から抜粋



津久井城(相模原市緑区根小屋ほか)は、相模川(現津久井湖)を北に臨む独立峰にある山城で、相模国三浦郡(現在の横須賀市、逗子市、三浦市一帯)の豪族だった三浦氏の一派・筑井(津久井)氏が築城したという説がある。16世紀になると相模・武蔵を領地とする北条氏の支城となり、甲斐(現山梨県)との国境に近い津久井地域を守る要衝として機能した。

天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めの際、徳川家康の忠臣本多忠勝らに落とされたと伝えられている。

山や地域の名としても残る城山は、山そのものの地形や山林、岩石を生かして築かれた城塞を指す「城山」が語源。山城は平地の面積が狭いため、城主の居館や家臣の屋敷などを麓に置いた。この住居集落を「根小屋」といい、現在、公園がある根小屋の地名もこれに由来する。城山そのものは旧津久井町の根小屋に存在するが、旧城山町は城山の東側にあったために名付けられた。

 ◆武田氏との合戦場に

津久井城が関連する合戦では、永禄12(1569)年の三増合戦(三増峠の戦い)がある。小田原城を攻めた武田信玄率いる軍勢が甲斐に引き上げようとする中、相模原市緑区と愛川町の境にある三増峠付近でこれを迎とうとする氏照・氏邦ら北条軍との間に起きた。

合戦の序盤は北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃で、武田軍左翼の侍大将・浅利信種が討死するなど北条軍が優勢だった。武田軍が派遣した支隊によって津久井城はけん制を受け、城主の内藤氏ら津久井衆は身動きが取れず北条軍の敗北に終わった。武田氏側の記録によると、戦死者は北条軍3269人、武田軍900人とされている。

三増の合戦跡には1969年に建立された記念碑、信玄が大将旗を立てたとされる「旗立て松」(石碑)、信種を祀った「浅利明神」などがある。

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