山田工業/100歳まで現役目指す


現場に立ち続ける山田社長

現場に立ち続ける山田社長


 山田工業(大和市柳橋)の山田道則社長が、腕一つで板金の世界に飛び込んで半世紀以上。72歳を迎えた今でも、モノづくりの情熱は衰えず、現場にこだわる。そんな山田社長を支えているのは「100歳を過ぎても働きたい」という夢でもある。手を汚し、汗を流す。忘れられつつある、〝製造業の原点〟ともいえる心を、山田社長は持ち続けている。
(松山祐介、1面に関連記事)

 ■中学卒業前に

 山田社長は横須賀市走水の出身。小さな漁村だ。父親は漁師。小学校3年生から手伝いで船に乗っていたという。
 ただ、漁場は狭い。船も手漕で沖には出られない。1日の稼ぎにも限界があった。
 漁師を継ぐのは村でもごく少数。安定した収入を夢見て、浦賀のドッグや軍港で工員として働くのが、同級生たちの共通認識だった。
 母親は米軍の車にひかれて亡くなった。そのためか、「常にいろいろなことに飢えていた」と、山田社長は振り返る。
 そんな環境が逆に、粘り強く、打たれ強い性格の土台になった。
 自立したい気持ちが強くなっていった。中学3年生のとき、たまたま東京・大田区にある板金工場で住み込みの仕事を見つけた。1950年代のことだった。

 ■本当の「自立」

 日給わずか150円。当時は「もりそば一杯30円」、「コッペパン15円」の時代である。それでも、日が昇るころから終電の時間まで、がむしゃらに働いた。
 運んでいた鉄板がリアカーから落ちて左手に大けがを負ったときも、病院に行って、すぐに仕事に戻った。重さ100キログラム以上ある資材を、1人で担いで足場の悪い現場を何度も往復したこともある。
 転機は工場で職人同士が鉄板加工の設計図を見ていたとき。これまで「熟練の勘」でやってきた作業を、山田社長は中学で勉強した三角 関数を使って見事に製図してみせた。仕事一途に打ち込んだ。
 そんな姿勢が評価され、18歳のときには、すでに10人の部下がいた。
 結婚を機に独立し、大和市に移った。これまで培った人脈からの請負仕事がメーンだった。

 ■年金も会社に

 ところが、受注には波がある。軌道に乗るまでスムーズにいかないのが、創業当時の苦労。
 たたき上げの山田社長は、技術には自信があった。人脈もあった。しかし、仕事は回ってこなかった。それでも「今が辛抱のしどき。耐えて、頑張る」と、何度も自分に言い聞かせた。
 ぎりぎりの仕事で食べつないでいたある日、知人を通じて自衛隊で使う車両の部品加工を依頼された。「加工だけならできる会社はあったと思うが、その中でも、うちの技術が目に留まったのでしょう」。
 以来、自衛隊だけでなく自動車関係、特にトラック部品の製造や加工の仕事が次々と舞い込んできた。
 技術力の高さは業界に広まり、「加工できないものは山田さんのところに持って行けば大丈夫」と言われるまでになった。
 積極的な設備投資もした。自らの技術力を試すように、住宅基礎パネルの製造、製缶板金、家具製作など、業容も拡大した。
 こうして堅実に成長していった同社だが、苦難に見舞われたのは、ごく最近のことだった。11年のタイ大洪水である。
 〝アジアのデトロイド〟と呼ばれるタイ。バンコク北部には、自動車の基幹部品を製造する大口取引先も進出していた。
 それが冠水により生産がストップ。山田工業への受注も止まった。
 仕事がなく午後3時、早いときは半日で工場を閉める日も続いた。売上高は最盛期の3分の1までに落ち込んだ。
 すでに70歳を迎えていた山田社長。それでも引退を考えず、「自分をハングリーな状態にしなければ成長できない」と、自分を奮い立たせた。年金は運転資金につぎ込み、自身の給料は一切受け取らなかった。
 そして「中小が生き残る道は、特殊な技術に磨きをかけること」と、自動車部品関係の仕事を減らし、会社の強みである鋼板加工の技術に特化した。何とか逆境を乗り越え、現在はリーマン前の8割程度までに売り上げを回復させた。

 ■技術の集大成

 山田社長が今、目指しているのは、モノづくりを通じた社会貢献という。
 今夏の製品化を目指すマイクロ水力発電機は、「電力の地産地消も期待できる次世代の装置」と胸を張る。
 山田社長が57年間培ってきた技術と知識をすべて詰め込んだ。これまでの〝経験の集大成〟ともいえる。
 「モノづくりの達成感は日本人の心。失ってはいけないもの。100歳まで仕事をするのが夢。できる、できないは別。目標を持つことが大切なんです」。苦労を表に出さず、その背中でこれからも会社を引っ張っていく。

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