クニミ工業、作業効率の高い粉体塗装で新たな基幹を構築/粉体・溶剤両対応の工業塗装


「予期せぬ事態にも即時対応を」と小林社長

「予期せぬ事態にも即時対応を」と小林社長

 公衆電話は、携帯電話の普及で今や見つけるのが困難なほど激減したが、かつてはインフラ、ライフラインの一翼として大きなビジネス市場を創出していた。

 通信・医療・事務機器等の工業塗装を手掛けるクニミ工業(相模原市緑区橋本台、小林孝至社長)も、往時の成長基盤は公衆電話機にあった。

 同社は1961年に小林社長の父・国夫氏が創業。オリジン電気(東京・豊島区)の技術者だった同氏は、新規事業の合成樹脂塗料開発に従事する中でその将来性を確信し、独立を決意した。

 親戚のつてを頼って下九沢に小さな事業所を開設。紹介でセントラル自動車(現トヨタ自動車東日本)から細かな部品塗装を請けるなど、船出は静かなものだった。

 飛躍のきっかけはすぐに到来した。翌62年、田村電機製作所(現サクサ)が公衆電話機の専門工場として宮下に相模原事業所を開設。既存の電話機を補修する際の再塗装を請け負うこととなった。

 高度経済成長とともに公衆電話機の設置数が急増。その中で64年に株式法人化、74年に峡の原工業団地内に本社工場を新設するなど、同社の成長が見事にリンクした。

 しかし、物事には変化が付きもの。85年に電電公社が民営化されると、公衆電話設置数が減少し始める。同社にとってより問題となったのは、90年代に入り、環境面への配慮から電話機に使う塗料が溶剤から粉体に変更されたことだ。

 さしあたり粉体塗装設備一式を調達した同社だったが、溶剤から粉体に変更しての再塗装は補修というより改修。仕上げ塗装より古い塗装を完全にはがし研磨する前工程に、多大な労力と時間を要する。電話機自体が減少する中での非効率な作業。手を引く潮時だった。

 バブル崩壊に基幹事業からの撤退、さらに97年には国夫氏が死去。ミレニアムを前に、同社は正念場を迎えていた。

 そんな折、意外な案件が舞い込む。医療・事務機器用のフロアスタンドやアームスタンド等の仕上げ塗装で、使う塗料は因縁ある粉体だ。

 古い塗装をはがす作業がなければ、作業自体は溶剤より粉体のほうが容易。単一色の量産製品なら作業効率、コスト両面でメリットも大きい。

 蔵入り状態だった粉体塗装設備を引っ張り出し、同業者のもとで研修を受けるや、積極的な受注を展開。こうして新世紀を新たな基幹事業とともに迎えることとなった。

 現在、溶剤・粉体両塗装に対応するが、受注は粉体が7割を占める。

 「粉体前提の営業はしない。まずは新規顧客を増やし、その上で顧客のメリットにつながる粉体の提案をしていく。再び起こり得る予期せぬ事業縮小にも無理なく迅速に対応できる体質づくりをしたい」と小林社長。

 出帆から半世紀を過ぎた。この先の航路の過酷さは、おそらく先代が舵を取った時代に勝るとも劣らない。2代目の手腕、機転に期待がかかる。
(編集委員・矢吹彰/2015年10月1日号掲載)

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