幼児教育へ生涯現役貫く/溝渕誠之さん


溝渕さん 座右の銘は「人は人、吾は吾、とにかく吾はわが道をゆく」―。前・相模原市議会議員の溝渕誠之さん(92)は、ことし4月投開票の市議選挙で、最下位当選者と一票差で落選。48年の市議生活に幕を引いた。引退後は、自身が設立した誠心幼稚園の園長として、園内設備の設置や維持管理に汗を流す日々だ。自ら耕した3反の畑にサツマイモを植え、子供たちとイモ掘りをするのが楽しみだという。幼児教育への熱い情熱で生涯現役を貫く。(8月10日号掲載/芹澤 康成)

 ■教育者の道へ
 溝渕さんは1923年7月、人口3千人ほどだった高知県大月町に生まれた。両親は学校の教員で、4人兄弟の3男として育った。
 小学3年生の溝渕少年は、手の付けられない「ガキ大将」だった。もてあました両親は、親類の元へ里子に出した。「両親の元を離れても、さみしくなかった」と振り返る。
 国語や社会を教える小中学校の教諭になるため、高知師範学校(現・高知大学教育学部)へ入学。現場の人材が足りず、卒業式もなしに現場へ駆り出された。
 戦後、日本人の伝統的な精神「忠孝」に代わり、米国から「個人主義」が入って来た。溝渕さんの人生観はそこで変わった。
 西欧の思想、特にキリスト教の「罪を一生背負って生きていく」「左ほほを叩いたら、右ほほを差し出せ」という考えに共感を持った。
 クリスチャンになろうと、教会に通い、賛美歌を歌った。だが、敵国・米国に負けたという悔しさが、「アーメン」という祈りの一言を口に出させなかった。
 当時、玉川学園の創立者・小原國芳氏が、高知県内の各地で講演を行っていた。小原氏の教育哲学に共感を覚え、予定されていた全日程の講演を聞いた。
 溝渕さんの顔を覚えた小原氏は「そんなに私の話が聞きたいなら、学校に来なさい」と、玉川大学教育学部への入学を認めた。学費や寮費など、一切が免除されたという。
 そして、26歳で大学に入学した。高知で結婚した妻を連れて上京。妻は相模女子大学に入学し、後の溝渕さんをサポートするため経理を学んだ。

 ■出版社を創業 
 29歳で同大学を卒業。「教育出版で全国の子供に良質な教育を届けたい」と出版社の創業を志したたが、教員時代の貯蓄は底を突いていた。開業資金を貯めるため始めた仕事が、教育図書や子供向け雑誌を販売する移動書店「大学堂」だった。
 町田第一小学校の校門前に屋台を出店し、少年誌などを販売した。だが、立ち読みをする児童ばかりで、買っていく子は一人もいなかった。「後から聞いたが、学校に小遣いを持って来ることは禁じられているそうだ」と溝渕さんは笑う。
 次に始めた仕事は、相模原市内の小中学校を周り、指導要領や参考図書を販売するもの。また、社名も「鳩苑荘書店」と改めた。大野の陸軍兵舎にあった〝ハト小屋〟を譲り受け、自身で改装した自宅に由来する。
 東京・神田の古書店へ自転車で出かけ、教職経験者の視点で優良な書籍を仕入れてくる。書籍をみかん箱いっぱいに詰め込み、行商して歩いた。
 これが〝あたり〟だった。出版社が担保として預けた本や、倒産した会社が売った本など、状態のいい本を安く仕入れて販売した。念願だった出版社の開業資金を約2年で貯めることができた。
 相模大野駅前の青果店の半分を間借りし、「相模書房誠公社」を設立。
 教育学者・篠原助市氏の著書『欧州教育思想史』を発行した。価格は上下巻合わせて1200円。あえて高めの値段に設定したが、良質な書籍を求める教育家に売れた。

 ■幼稚園を設立
 60年代に入ると相模大野団地が完成し、大野周辺の人口は急激に増加した。それに伴い、未就学児への対応も求められた。
 溝渕さんは就学前の教育が大切と考え、「誠心第一幼稚園」(同市南区西大沼)を設立した。総ヒノキ造りで、天井も小学校の水準に合わせるなど、当時としては画期的な教育環境を整備した。
教育理念も母校・玉川学園の「全人教育」を取り入れた。恩師・小原氏が提唱する「清い心」「よい頭」「強い体」が調和の取れた教育を目指しているという。

 ■市議会議員へ
 「人口が急増する相模原市で学校を整備したい」という想いから、67年の市議選に立候補した。自治会や商工会から反対を受けて後援会もなく、ドブ川を背に出陣式を行った。教育への強い思いが認められたのか、初出馬で初当選を果たした。
 「出版業が軌道に乗っていたので、後ろ髪を引かれる思いもあった」と心境を語る。
 近年は、県下初の「いじめ防止条例」の制定に尽力するなど、「子供」「教育」のために情熱を注いだ。スイスの児童心理学者ピアジェの「認知発達理論」を幼児教育に導入するよう、当時の文部大臣に求めたこともあったという。
 これらの功績が認められ、2000年に文部大臣感謝状、02年に総務大臣感謝状を受賞。また、14年に現職市議としてはまれな、「旭日中授章」を受章した。
 13期目の当選を目指し、ことし4月の市議選に立候補。統一地方選の候補者の中で、もっとも高齢な候補者だった。3303票を獲得するも、わずか1票及ばず落選となった。
 「生涯現役という言葉は忘れていない。教育の現場から、日本の教育に訴えていきたい」と声は力強い。
 選挙後は月に1回、東京の神田に通うようになった。孔子の論語を学ぶためだ。全国各地から集まってくる行政の首長や経営者と肩を並べ、熱心にテキストにメモを書き込んでいる。
 溝渕さんは「価値ある人生は豊かで健康なこと。そのためには真・善・美・聖が必要だ」と話す。「幼児教育に出版。やることはまだまだある」と、生涯現役を貫く。

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