カズテクニカ、情報通信の未来へチャレンジ/基地局工事で本請へ


技術を追求する土屋社長

技術を追求する土屋社長

昨年8月に移転した本社

昨年8月に移転した本社


 日常生活やビジネスに欠かせないツールになった携帯電話やスマートフォン(多機能携帯電話)などの情報通信を支える企業「カズテクニカ」(相模原市中央区中央)。その創業者・土屋俊二社長は、中学生の時に「電波」の不思議さに魅せられ、無線通信の技術者としての人生を歩む。「情報通信技術の未来へチャレンジ」を標語とし、無線通信が持つ可能性の追求を続けている。(芹澤 康成/2015年2月10日号掲載)

 ■電波に関心

 1951年、東京都檜原村で2男2女の次男として生まれた。両親は村役場の職員で、祖父・敬一氏は村長だった。父も役場を退職後、同村議会議員となり、議長まで務めた。

 8歳離れた兄は、米空軍の横田基地に出入りしていたため英語が堪能。反抗心のためか、土屋社長は理系を得意分野にすると決心したという。

 中学生の頃は、さまざまな機械の構造に関心を持ったことがきっかけで、ラジオなどを自作する電気工作にのめり込んだ。鉱石ラジオにはじまり、世界の短波放送を聴くためのBCLラジオも製作した。

 「地球の裏側の放送を聴くため、アンテナを張った。田舎だったから、50メートルのアンテナ線も設置できた」と話す。

 実家のある檜原村は、東京都西部の山間部。季節によってテレビがよく映らない時期があると気付き、電波の性質について勉強した。〝電波〟が木の葉や草によって屈折することや、地球の裏側からも届くことを知ると、ますます興味・関心は高まった。

 土屋社長は、日本大学生産工学部電気電子工学科へ進学。学生運動に翻弄されながらも、フェライト磁石を用いたノイズ対策の研究に没頭した。

 ■好調な独立

 74年に大学を卒業し、東京都杉並区の中堅通信機器メーカーに入社。技術者として、警察・消防やタクシーなどの無線の設計からすべてを任されていた。土屋社長が開発した製品で、会社の業績に貢献したものもあったという。

 勤続20数年が経った頃、携帯電話が市場に並び始めた。携帯電話は、送信者と受信者が双方向で会話できる双方向通信。「送信者しか話せない無線通信の時代は終わる。次は、必ず携帯電話の時代が来ると考えた」と口調を強める。

 98年に独立し、東京都町田市にカズテクニカを設立。相模原市中央区相生に技術部が入る事業所も設置した。

 カズテクニカは、前職の部下も加え4人でスタートした。ひとりで一つの製品のすべての工程に携わっていたことも手伝い、滑り出しから好調だった。早くも大手端末メーカーの設計業務へ参入すると、次々に新しい仕事を受注できた。

 携帯電話のソフト評価業務は、普及の波に乗って拡大。年間で5、6機種手がけるようになり、人手が不足するようになる。

 ■大手の元請へ

 06年に参入した携帯電話の基地局設置工事では、各携帯電話会社の「施工元請」として指定を受けた。また11年4月には、ソフトバンク(孫正義社長)傘下のワイヤレス・シティ・プランニング社の施工元請業者となる。「地域では唯一だと思う」と土屋社長。

 同社は08年、一般建設業許可の電気工事・電気通信工事を取得。圏央道トンネル内のラジオ再放送システムをはじめ、防災行政無線や河川監視カメラなど、官庁が発注する公共工事を請け負っている。

 14年8月、本社を中央区清新から同区中央へ移転。すべての部門を1カ所に集約したことで、効率的・効果的な業務を可能とした。

 ■電波の可能性

 今後は、これまでに培った無線技術をベースに、双方通信機能を持つ計測器「スマートメーター」の普及促進にも力を入れているという。スマートメーターは、電力やガスなどの使用量をデジタルで計測する機能に加えて、メーター内に通信機能を備えている。

 無線の技術は、公共交通の定期券や銀行のATMカードのICカードにも使われている。また、ブルートゥースや無線LANのように、携帯電話やパソコンの周辺機器にも応用されるなど可能性は無限大だ。

 土屋社長は「人とのつながりがあって、今のカズテクニカがある。社名の由来は漢字の「和」。無線通信技術で人と人とが結ばれ、出会いを大切にする社会を創出したい」と抱負を話した。

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