ミヤコホールディングス、重なる苦境乗り越える/「健全経営」で原価管理徹底


挑戦を続ける鈴木社長

挑戦を続ける鈴木社長


 ミヤコ陸運やミヤコトランクルーム、ミヤコバスの3社の親会社である「ミヤコホールディングス」(相模原市緑区大島)の社長を務める鈴木亜喜男(72)さん。1942年、茨城県日立市で農家の次男として生まれ育った。運送業とトランクルーム事業、観光バス事業の3本柱でグループの基盤を築いた。それぞれの事業を3人の息子に引き継いだ後も、「農業」という新しい分野にチャレンジしている。(芹澤 康成/2014年10月20日号掲載)

 ■24歳で運送業へ

 鈴木さんは中学校を卒業後、地元の日立製作所の子会社に就職した。大型発電機の配電盤の製造などに携わった。
 18歳で子会社から日立製作所に入社した。「天下の日立と思って入ったが、一生このままでいいのか」と疑問に感じ、20歳で退職を決意した。
 当てもなく上京した鈴木さんは、港区赤坂にあったトヨタ自動車の関連会社へ入社。修理や整備など、自動車に係る業務に従事した。
 その後、蒲田自動車教習所(現・ラヴィドライビングスクール蒲田)の指導員に転職。鈴木さんは「昔から自動車が好きだったが、自動車関係の仕事に就きたいという目標があったわけではなかった」と話す。
 23歳の時、知人から話を持ちかけられた仕事が〝運送業〟だった。大型自動車の運転免許は、教習所在職時に取得。「すべての自動車運転免許を持つ人は、市内に7人しかいないらしい」と笑う。
 当時住んでいた大田区蒲田で「都産業」として運送会社を創業。中古で購入した2t車1台に自動車部品などを積み、都内を運んだ。
 当時は、大手運送会社の下請けとして不眠不休で働いた。しかし、「このままでは将来性がない」と考えた。
 同年4月、相模原市緑区大島に移転。車両を7台に増車し、社名を「ミヤコ陸運」とした。24歳の時だった。
 開業の地として相模原を選んだのは、開業当時からの得意先であるオフィス器具メーカーが事業所を構えていたから。「60年代の相模原は砂利道だらけ。蒲田から比べると、開発が進んでいなかった」と鈴木さん。
 時は60年代後半。日本経済は、高度経済成長期の全盛期を迎えていた。〝いざなぎ景気〟だ。矢継ぎ早に入ってくる仕事に対応するため、着々と増車を繰り返していった。
 72年には彦根営業所を開設。売上倍増計画を打ち立てるなど、会社経営は順調に進んでいくかに見えた。

 ■2度の石油危機
 経済基盤が安定しない73年、第1次オイルショックに見舞われた。資金の調達方法が分からない上、担保物件もなく経営危機に追い詰められた。
 危機を乗り切ることができたのは、知人が提供してくれた担保で資金調達ができたこと。「商売は一人ではできない。周りの人の協力があって、苦境を乗り越えることができた」と振り返った。
 難を乗り切ったが、西日本への重要な拠点だった彦根営業所を閉鎖。長距離輸送も縮小し、関東近郊を中心に事業を抑えた地場輸送にシフトすることになった。
 79年は、第二次オイルショックとなり、再び燃料価格の高騰と供給不足が運送業界を襲った。だが、第一次オイルショックを経験して得たノウハウで大事なく乗り切ることができた。
 その後、「健全経営」をモットーに数字管理を徹底。手形を発行していたが、すべてを現金決済にした。「原価計算の管理徹底。それがどの業界でも鉄則だ」と話す。

 ■貸し倉庫事業

 トランクルーム事業を開始したのは89年。一般ユーザー向けの貸し倉庫事業はコンテナ50個を購入し、大島トランクルームセンターの貸し出しをはじめた。自由に荷物を出し入れできるため、一般家庭の利用者から好評を博した。
 96年に最盛期を迎え、車両台数は史上最多の57台となった。荷主の大手ガラスメーカーの新設に伴い宇都宮営業所(栃木県高根沢町)を設置した。
 二度のオイルショックを乗り越え、新事業にも着手し成功を収めた。しかし、2000年に自社車両減車方針という苦渋の決断を下す。
 NOx規制で基準に満たないディーゼル車は使用できず、車両の60%を入れ替えた。全国で統一された規制ではなく、都市部を走行する車に適用された。
 07年、いわゆるリーマンショックの余波は相模原にも襲った。輸送量が大幅に減少し、車両台数を28台まで減車。100年に一度と言われる大不況の渦中、40周年記念式典を挙行することができた。
 現在は事業を息子たちに承継し、鈴木さんは市内で農業法人を立ち上げ、米や野菜、くだものを生産している。長野県内に購入した果実畑では、自慢の「巨峰」が収穫される。
 三男の誠さんが経営するミヤコバスでは、ぶどう刈りを体験できるツアーも企画。親子4人でグループを盛り上げている。
 「内助の功が必要だ。苦しい時に支えてくれる人がいて、踏ん張って生きている」と鈴木さんは話していた。

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