ニッコー、故郷の熊本に錦飾る/食品作り 妥協許さず


食品の品質にこだわる山﨑会長

食品の品質にこだわる山﨑会長


 大和市代官に本社を置く冷凍食品のニッコーは、この7月に創業30周年を迎える。一貫して、「産地直送」「化学調味料不使用」を基調に事業展開してきた同社。このほど、熊本県八代市に初の地方工場として「八代工場」を建設、稼働させた。八代市は、創業者の山﨑貞雄会長(70)の出身地。文字通り、故郷に錦を飾った格好だが、工場の竣工式で山﨑会長は「八代湾に近く、農地にも恵まれており、農産物、海産物の地産地消に務めたい」とさらなる意欲を語った。(編集委員 小宮山光賢/2014年6月10日号掲載)

 ■父の助言で

 操業を開始した八代の新工場は、約1700平方メートルの敷地に、総床面積約530平方メートルの建屋を設けた。
 当面は最新鋭の製麺機などを備え、うどんなどの麺類の量産から始めている。
 いずれは、総合食品工場に育てたいというのが山﨑会長の夢でもある。故郷に雇用の場を拡大するのも地域貢献と捉える。
 山﨑会長は、1943年、現在の熊本県八代市二見に生まれた。当時はニ見村と呼ばれ、八代海(不知火海)に面した小さな村で700世帯、約4000人が暮らす、のどかな場所だった。
 近くには日本一の急流、球磨川が流れる自然豊かな環境で育った。
 高校を卒業すると父親から「熊本県内でなく、東京に行って勉強した方がいい」と送り出してくれた。
 時は、日本が高度経済成長にさしかかろうとした1960年代。
 「おやじも時代の先を読んでいたのかもしれません」とその当時を振り返る。
 最初は、豆腐事業者の組合からの派遣という形で公的な研究機関で大豆の研究に没頭した。
 専門知識の必要性を自覚して、研究機関での勤務の傍ら、東京理科大学の夜学にも通い、勉学にも懸命に励んだ。

 ■40歳で創業

 その後、縁あって東京の大手食品会社に入社することになった。
 ここで、食品の製品開発の方法から消費者ニーズの捉え方まで経験した。
 食品事業の要諦を徹底的にマスターした。40歳になるのを機に、ニッコーを創業した。
 ニッコーという社名は、山﨑会長が定めた経営理念の「日に興す」の日(ニチ)・興(コウ)から命名したもので、従業員とその家族、お客様あるいは社会のためにコツコツ頑張るという宣言だという。
 故郷の熊本から東京に出てきて14年目に会社を設立した。そして、ニッコーが掲げた社是が「自分の子供に安心して食べさせられる食品を作る」。すべての親の願いがこの言葉に凝縮されているのだ。
 その背景には、山﨑会長の強い思いがある。
 会長が子どもの頃は、水はとてもきれいで、自然も豊かだった。
 素材をそのまま生かした料理で食べることができた。
 「ただ便利だから、企業の都合がいいからというだけで、余計なものを加えて人体に負荷をかける食品を造ってはいけない。できるだけシンプルで、ナチュラルなものでありたいという思いだと」と山﨑会長は強調する。

 ■新事業推進

 地産地消を標榜するニッコーでは、10年11月から農業事業部を立ち上げて、本格的に農業分野への参入を果たした。 
 近年、国内では農業従事者の高齢化による農業離れが進み、農作物の自給率も低下し続けている。
 そのため、国産にこだわるニッコーでは、農業を放棄した農家から農地を借り入れて、自然な状態で食べられる野菜を積極的に作ることにしたのだ。
 その結果、より信頼性のある冷凍食品を製造して、市場に「健康で安心安全なもの」の提供を通して縦貫ビジネスの確立を目指している。
 さらに同社では、現在、廃棄物への削減策として、野菜の商品として使用しない部分を、ごみとは別に堆肥として再利用するシステムに取り組んでいる。
 これにはかなりの労力と時間が掛かるが、「自らの土壌が作る作物を再び土壌に戻して、また作る」という環境の循環を実現するというものでもある。

 ■第二の創業

 山崎会長は4年ほど前から、後継者と決めた長男の雅史社長に会社の経営を任せた。
 大和商工会議所の会頭など社外の要職にも就いた。そして「第二の創業は後継者に任せたい」としている。
 後継者のやり方には一切、口を出さないという山﨑会長だが、ほぼ毎日の製品試食には、厳しい「品質には絶対に妥協してはいけない」と声を大にして徹底している。

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