相模・多摩、家康公遷御の道を辿る/日光で4年ぶりに千人行列


今号を編集している5月17・18日、栃木県日光市の日光東照宮では、コロナ禍で4年ぶりに、春季例大祭の関連行事として「流鏑馬(やぶさめ)」「百物揃千人武者行列(千人行列)」が行われた。千人行列は、元和3(1617)年に徳川家康の遺骸を駿河(静岡県)の久能山から日光へ改葬した際の行列を再現したもの。武者などに50種以上の役割に扮した人々が参道などを練り歩く。【2023年5月20日号掲載】

5月18日に行われた千人行列=写真提供・柳原一興さん(日光市)

5月18日に行われた千人行列=写真提供・柳原一興さん(日光市)



相模原市南区や町田市などにも、家康の棺を運ぶための道「御尊櫃御成道(ごそんひつおなりみち)」の面影が残る。道中には指標となる一里塚、行列が休憩を取ったとされる寺などがある。

千人行列は兵士鉾持ち100人に獅子、八乙女、神官などが続き、鉄砲持ち50人、弓持ち50人、槍持ち50人、鎧武者100人など計1200人前後(ことしは500人程度)だが、当時もほぼ同じ規模だったとされる。

遷御の列が出発したのは1617(元和3)年3月15日。19日は小田原城内に宿泊し、20日には平塚の中原御殿に滞在。相模川を渡ったのは21日と見られ、同日中に府中の鷹狩り御殿に着いている。日光に到着したのは4月4日未(ひつじ)の刻(午後2時ごろ)という。

沼津から御殿場を通る矢倉沢往還(国道246号)を使い、相模川を渡るときは厚木村(厚木市)から「厚木の渡し」を用いて河原口村(海老名市河原口)に渡ったとされる(『厚木の街道』県央史談会)。一行は座間の宗忠寺(座間市座間1)で休息をとった。

宗忠寺は1603(慶長8)年、家康の重臣で、新戸や磯部の領主であった内藤清成(初代高遠藩主)が実父・竹田宗忠のために開山した寺。家康公が鷹狩りの際の立ち寄ったともされ、休憩所として建てさせたという御殿も境内に残る。自身で植えたとされるイチョウや、拝領された茶器一式などが伝わる。(同市観光協会)

相模原市南区内には新戸、下溝(麻溝台)と一里塚の跡に石碑が残る。古淵を通って町田市木曽にも一里塚があり、その先の福昌寺(木曽西3)が休憩所となったと同寺の記録にある。

 

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