京島圭子氏、県議会で「介護・福祉」を発信


「南区を元気に」と語る京島さん

「南区を元気に」と語る京島さん



相模原市南区選出の京島圭子県議(47)は相模原市選出の唯一の女性県議。病院勤務、損害保険の営業を経験したあと、訪問介護と保険代理業の会社を起業した女性実業家であり、父親の終末期介護の経験者でもある。本村賢太郎衆院議員の後援会でボランティア活動をしていたことが機縁になって、2015年の県議選に民主党から立候補し当選。県会ではかながわ国民民主党・無所属クラブに属し、介護、医療、子育て世代や高齢者支援などをテーマに体験と信念にもとづく発言を続けている。

(編集委員・戸塚忠良/2018年8月10日号掲載)

 

■病院勤務

1971年3月に山梨県に生まれた京島さん。父親は警察官で厳しくしつけられて育ち、母親に諭されて中学生のときから自分で弁当を作った。「人に教えられるほどの料理の腕前になったのは、母親が幼いころから料理を身につけさせてくれたから。感謝しています」と目元を緩める。

市立甲府商業高校卒業後は病院勤務の道を選んだ。個人病院だが救急ベッドを備えており、整形外科へ運ばれてくる救急患者とその家族に接することも少なくなかった。

「肉親の悲しみや苦しみ、家族間のさまざまな問題などに向かい合い、ドラマの現場に立ち会っているようだと感じました。そこから学んだ教訓は、防げる病や事故が沢山あるということと、予防に役立つ情報を発信することの大切さでした。この思いは今も強く残っています」

■保険の営業

病院勤めをしながら結婚、出産したが、息子が4歳のときに離婚。新たな仕事をさがすことになり、損害保険の営業の仕事に就いた。代理店として独立開業するための選択だった。

3年3カ月の期間にノルマを果たし何度かの試験に合格して、同期約120人のうちわずか8人だけという独立開業の資格を取った。

「ノルマをクリアできたのは、私の誠意を理解してくれたお客様のおかげ。紹介してもらうことも多く、人と人とのつながりの大切さを痛感しました。また、勉強を重ねるうち、こういうことを多くの人に知ってもらえれば幸せに暮らせるはず、と思うことも沢山ありました」と回想する。

一方、余命宣告された父親の介護をするため、夕方仕事を終えてから相模原と甲府市を往復する生活を続けた時期もある。

■ボラから県議へ

この前後、本村議員の後援会の手伝いをすることになった。

「友達に誘われた政治家の集会で、一人ひとりに声をかけながら丁寧にあいさつしている人がいて、随分心のこもったお見送りだなと思ったのです。それが本村さんでした。この人の力になれるならと後援会のお手伝いをするようになりました」

その協力ぶりについて、本村議員は「人前に出るお手伝いも、人目に触れない縁の下の力持ちのようなお手伝いもいつもニコニコしながらやってくれました」と、京島さんのホームページに寄稿している。

誠実な活動ぶりは多くの人の目にとまり、14年12月、南区選出の民主党県議が辞職したのに伴い、その後継者に推された。

立候補を決意した要因は、「後援会での活動は楽しくやりがいがあり、人間としての私を大きくしてくれた」という感謝の念と、「藤井裕久先生と本村さんたちが大きく育てた神奈川の民主党の議席を消してはいけない」との使命感だった。翌15年春の県議選に出馬。市南区で2万1千票あまりを得て2位当選を果たした。

■介護・福祉に特化

今は「人にやさしい県政を」というスローガンを掲げ、「住んで安心、子育て安心の南区を」という自身の経験に裏打ちされた政策目標に基づく議会活動にまい進している。

なにより熱心に取り組んでいるのは、介護、医療、子育て支援の問題。この4年間の一般質問で取り上げたテーマは、在宅介護における人材不足、障害者の就職支援、介護事業における環境改善、親の就労支援、児童虐待への対応、認知症対策、早期発見への取り組みなど。

「質問を重ねるたびに、何人もの先輩議員から『また介護か』と言われたこともありますが、最近は介護・医療問題なら京島が詳しいという声を頂いています。これからも介護、福祉を中心に、併せて地域経済の活性化と雇用の充実に向けた活動に取り組んでいきたい」と意欲をのぞかせ、「議員として大切なことは、市民の役に立つ情報を発信することだと思います。介護する人、ヘルパー、介護職員の皆さんに関心をもってもらえるような情報の発信に努めます」と熱を込める。

笑顔を絶やさない快活な話しぶりにはバイタリティーがあふれる。その元気の源は好物の甘い物。人と話すことが好きで、ストレス発散法は笑うこと。座右の銘も「ため息の数だけ幸せが逃げる。いつも笑っていよう」だ。

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