遠田文江さん、相模原中の女性をキレイに!/創業53年の「たけみや」


「必ず結果をだします」と遠田さん

 「必ず結果をだします」と遠田さん



「相模原中の女性をキレイに、元気に、幸せにしたい!」、化粧品とエステの「たけみや&radiar」(相模原市中央区横山)の遠田文江オーナーは溌溂とした声で思いを語る。華やかなキャリアをへて母の店を継ぎ、以来ずっと利用客一人ひとりの美しさと魅力を引き出すことに努めている。心のこもった接客の評価の高さとエステの技法の確かさは口コミで広がり、県優良小売店舗表彰、相模原お店大賞受賞という実績につながった。働く女性のトップランナーの一人に半生を振り返ってもらった。

(編集委員・戸塚忠良/2018年5月1日号掲載)

 

■教員志望

川崎市に生まれた遠田さんは3歳のとき相模原市横山へ。両親はともに教員だったが、転居先が店舗付き住宅だったため、母親が一階の店舗で文房具店を営むことになった。しばらくして資生堂の化粧品も商い始め、遠田さんが県立相模原高校に通い始めるころには化粧品専門店になっていた。

高校時代は野球部のマネージャー。県大会でベスト16に入り、みんなで涙を流して喜び合ったのが一番の思い出だ。

そして、絶対に小学校の先生になるという夢を抱いて鎌倉女子大に進学。だが、あるときアルバイト先のピザ店で青学大出身の店長から思いがけない声を掛けられた。「若いうちに一度は東京を見ておいた方がいいよ」。

 

■華麗なキャリア

このアドバイスに心が動き卒業後、教員の夢を凍結して東京・青山の衣料品製作、販売会社に就職した。

「入社2年目から店長を任され、楽しく充実した日々を過ごしました。人のつながりと、沢山の人に支えられている気持ちを忘れずにいることの大切さを学びました」

だが、心のどこかに「いずれは母の店を継がなければ…」という気持ちもあった。4年後資生堂内のSABFAというプロ美容師の養成機関の募集を知り、「今決断しなければ」と考えたのはこの気持ちに後押しされたからだった。

SABFAで美容の手技を習得し、その後は資生堂の研究所に勤めエステ技術の開発、全国の優秀なエステシャンを対象にした技術指導などに従事。ソフト情報の広報も担当してテレビ出演を始めとするマスコミ対応も担い、海外出張も重ねた。

最先端のエステ施術と最新の美容情報に触れる毎日を送る中で、「この仕事を一生続けたい」と思ったのも当然だろう。

しかし、36歳になった遠田さんに大きな転機が待ち受けていた。「たけみや」の創業者である母親が他界したのである。61歳の早過ぎる死だった。

 

■たけみやを継ぐ

華やかな仕事を続けるか母の跡を継ぐか、迷ったのは言うまでもない。だが、「たけみや」を継ごうと心を決めた要因が二つあった。

母親の葬儀のとき、店に長く勤めていた女性従業員が胸の底から絞り出すような悲しみの涙を流している光景を見て、「自分にはこれほど深く心を寄せてくれる人がいるだろうか」と自問し、「たけみやを廃業させてはいけない」と考えたことと、定年退職していた父親が「店が無くなると何もすることがなくなるなぁ」ともらした一言だった。

最初は資生堂の化粧品販売で店を維持することが自分の役割と考えていた。だが、2年目に超音波機器によるエステと出会う。「手技だけが最高と考えていた自分の眼からウロコが落ちました」と回想するとおり、手技と超音波によるソニックエステの組み合わせを店の新たな看板事業にしていく。

「お客様のお気に入りの化粧品を使ってエステを行い、キレイになっていただきます。キレイになれば心が元気になり、心が元気なら幸せになれると思います」

もちろん、この信念は若い頃から磨き上げた手技への自信に裏付けされている。店の若いスタッフにも一から技術を教え、心をこめた対話を大切にする接客を身につけるよう指導している。

 

■広がる夢

店内は明るくアットホームな雰囲気に包まれているが、華美な照明で化粧品を飾り立てることはしていない。「照明の熱で品物の品質を劣化させず、鮮度を保ちたいから」というのが理由だ。10代から80代まで幅広い客層を獲得し、毎週一回定期的にエステに通う人は50人を超える。

自身も働きながら3人の子育てを経験した遠田さんは、「エステは決して敷居が高いものではなく、キレイになりたいと願う女性みんなのものです。仕事で忙しい女性にもぜひ一度体験していただければ…」と呼びかけ、「相模原中の女性をキレイに、元気に、幸せにしたい!日本中で相模原の女性が一番キレイと言われるようなまちにしたいですね」と笑顔で語る言葉に真情を込める。

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