佃進一さん、反響呼ぶ「さがみ大工道具館」/匠の名品を次代に伝承


写経も趣味という佃さん

写経も趣味という佃さん



「建築関係の仕事を長く続けられたことに感謝し、これからは社会貢献につながることをしたいと考えました」―昨年6月、さがみ大工道具館(相模原市中央区清新)を開設した佃進一さん(73)は、穏やかな口調でこう語る。約80平方㍍の展示室には日本の伝統工具が所せましと並ぶ。佃さん自身が全国の産地に足を運んで買い求めた逸品だ。「展示は古来の道具のよさを伝えるのが目的ですが、職人さんに活用してもらいたいと思い、有償で譲渡もしています」と、名品を生かす伝承サイクルの構築に意欲をのぞかせる。

(編集委員・戸塚忠良/2018年4月10日号掲載)

■佃建材店開業

1944年(昭和19)八王子市に生まれた佃さんは太平洋戦争末期の大空襲で家を焼かれ、両親とともに相模原市矢部へ転入。地元の小中学校、県立神奈川工業高校に学んだ後、立正大経済学部に進学した。

学生時代は、大学の近くにあった豊田建材興業でのアルバイトに熱中。建材業の仕事の面白さを知った。卒業間近の頃、父親が病に倒れ、進路をどうするか考えた末、バイト先の社長の「相模原でやってみろ」という励ましの言葉に感銘を受けて独立起業を決心。大学を中退して自宅で「佃建材店」を創業した。67年3月、22歳の時である。

「資産と言えば15万円で買った中古のダイハツ三輪トラック一台だった」。この創業時のトラックへの思い入れは深く、今も道具館の前にリペアした同型車を展示している。

創業当初は苦しい経営が続いた。「昼は握り飯、夕飯は味噌をご飯に乗せて食べた。たまのおかずはメザシが一匹でした」と、母親と二人で過ごした苦難の時期を回想する。

 

■グループ4社に

そんな試練が続く中、独立を応援してくれた豊田建材興業の支援もあって、次第に仕事量が増え70年10月、佃建材興業を設立した。

会社は次第に軌道に乗り、毎年周囲の土地を購入して社屋と機材を拡充していった。「創業10年くらいまでは前年比3割、5割の増では物足りなかった。倍々で成長するのが当たり前という感覚だった」という。

建材関連分野にも積極的に進出し、76年に金物販売部門を分離独立してサガミ住器センターを設立。85年に圧送工事部門を分離してポンプヤとして独立させ、89年には生コンクリート販売部門を分離独立して平成生コンを設立。4社を擁する佃建材グループが誕生した。

佃グループは、今に至るまで『お客様の信頼を大切にして、良い品を安く・早く』をモットーにした営業を続けており、創業50周年を迎えた2017年に、佃さんは代表取締役を子息の一雄さんに譲った。

 

■文化への関心

こうした発展の中で、佃さんの趣味の一つが美術館巡り。一時は社屋の一部に画廊を設けるほどだった。「絵を批評家のような眼で見るというのではなく、それに囲まれている雰囲気が好きなんです」と笑う。

もう一つは城郭巡り。犬山城、名古屋城など仕事先で足を伸ばして訪れることが多く、建材業のプロとしての視線を城郭に向けることも少なくない。「どの城を見ても日本の建築技術と道具は大切な宝だという思いを深くします」と熱を込める。

その思いに後押しされて、金物産業で知られる兵庫県三木市の伝統工芸品や、越後鍛冶の手による刃物など匠の技を今に伝える道具を買い集めるようになり、収集量は趣味の域を超えるまでに増えていった。

50歳代後半に病に襲われ入院した時期があった。この折、読んだ時代小説がきっかけで、伊豆半島にお遍路があることを知った。2年ほどかけて伊豆八十八カ所を巡るなかで、いくつもの忘れがたい出会いを経験。妻と二人で八十八番寺をまわり最後にもう一度一番寺に詣でた。「その時の達成感、爽快感は言葉に尽くしきれないものがありました」と語る。

 

■大工道具館

昨年、創業50周年を迎えて佃さんは代表取締役を子息に譲り、古来の道具を展示する「さがみ大工道具館」を6月にオープンした。

展示品は、瑞宝章を受章した名工の手に成る鉋(かんな)をはじめ鑿(のみ)、鋸(のこぎり)、小刀、玄能、さらには砥石(といし)、墨壺(すみつぼ)など数千点に上る。

胸の奥には「お金を稼ぐための仕事は50年間させてもらった。その恩返しの気持ちで、名工による名品を展示し、鍛冶職人や道具製作者への支援、日本の木造建築技術の伝承に貢献したい」という思いがある。

オープンから間もなく1年、評判を聞きつけて遠方から見学・購入に訪れる大工、家具・建具職人の姿も多く、「これだけ名品が揃った施設はほかにはない」といった感想談も聞かれるという。

『相模原に貴重な大工道具館あり』の評判が今後ますます広まることが期待される。

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