塚本隆二さん、心臓医療を自社製品で支援/メーカーと相談NPO運営


医師との信頼関係も深い塚本さん

医師との信頼関係も深い塚本さん



相模原市緑区二本松に本社を置くカルディオメド代表取締役の塚本隆二さん(59)。若い時アメリカでの生活を経験し、ヨーロッパも見て回った。帰国後は不動産業や医療機器の営業に携わったあと独立開業。自社製品をはじめとする国内外の医療機器の販売、医療サービス業の計画立案と事業化などの業務に取り組んでいる。心臓手術を受ける患者向けに情報提供するNPO法人も運営し、多忙な毎日を送る塚本さんに変化に富んだ半生を振り返ってもらった。

(編集委員・戸塚忠良/2018年2月20日号掲載)

■アメリカ生活

塚本さんは兵庫県宍粟(しそう)市の出身。高校卒業後アルバイトをしながら貯めたお金をはたいて1981年、20歳のときアメリカへ渡った。「友達に誘われ、それなら行ってみようかという軽い気持ちだった」と飄々(ひょうひょう)とした口調で回想する。滞米中、ロセンゼルスで半年、ボストンで1年暮らした。

「生活費が必要だったからロスでは日本人が経営するパン屋で配達の仕事をした。ボストンではハウスクリーニングの仕事をしようと考え、ルームシェアしていたフランス人に教えてもらって自分でチラシを作り、富裕層の家に配布し、結構注文があった。ちょうどボストンマラソンで瀬古利彦選手が優勝し、私の容貌が似ていたので市民がフレンドリーに接してくれた」

その後40日かけて西ヨーロッパ諸国をめぐる旅も経験した。「言葉は英語と動作で通じた。オーストリアのインスブルックで、夜の公園で無料コンサートを聴いて、日本にもこんな文化があればいいなと思った」という。

アメリカでの生活とヨーロッパでの見聞を体験して身に着けたのは、「何をしてでも生き抜いていける」という自信と、「楽しく暮らそう」という将来への思いだった。

 

■バブルの最前線で

一時はアメリカ永住も考えたが、滞米中に知り合った日本人から「自然食品の販売を手伝ってくれないか」と誘われて日本に帰国した。

この仕事は実現しなかったが、いくつかの仕事を経て都内の不動産会社に就職。バブル経済がピークに向かう頃で、しかも飛躍的な発展を続ける六本木とその周辺も商圏に入っていた。

「前の年は2億円だった古いビルが翌年には8億円で取引される時代。会社の業績はうなぎのぼりだったが、利益優先のぎすぎすした人間関係に嫌気がさして会社を辞めた」という。

 

■医療機器業務へ

次に足を踏み入れたのは医療関係の仕事。「求人情報誌を見て外資系の医療機器の輸入販売企業に就職した。同時に、ボストンで知り合った人の中に鍼灸院を開いて成功した人がいたのを思い出し、自分も鍼灸師になろうと考え、専門学校に通い始めた。昼間は会社、夜は学校という生活を続けた」。

会社では都内、千葉、茨城の医療機関相手の営業を担当し、心臓用ペースメーカー、カテーテル、心臓用人工弁などの販売、納品に汗を流して上々の成績を収めた。

そんな日々を送るうち仕事が忙しくなったのは当然で、学校は卒業したものの鍼灸師への道は自ら閉ざした。

 

■カルディオメド

12年間勤めた会社を辞め、つくば市にティーエスエス社を設立したのは39歳のとき。取り扱う商品は従来と同じ医療機器だが、メーカーの営業から卸販売業への転身だった。

2003年には有限会社から株式会社カルディオメドに組織変更し、事業目的に「わが国内外の医療機器販売、医療サービス業の分野における技術の研究開発・事業計画・事業経営に関する業務」を掲げた。

海外で開発された医療機器のわが国医療界への導入、医療経営コンサルタント、医療機器の製造企画販売などが具体的な業務内容だ。

開業以来、中国企業から輸入した部品の不具合、競合企業の増加、医療制度の変更に伴う市場の縮小といった逆風に耐えつつ、現在は心臓手術や検査の際に使う自社製品の製造、販売に力を入れている。

なかでもインデフレーターという圧力計付き注射器と、カテーテルからの血液漏れを防ぐYコネクターが主力だ。「低価格化を実現しており、ヒット商品になると思う」と自信の表情をみせる。

これと並んで、いわゆるセカンドオピニオンを提供するNPO法人としても活動している。

「命に直結する心臓手術を受ける患者さんが手にする情報は非常に少ない。この状態を改善するために過去の実績などのデータを収集して提供したいと考えた」と開設の動機を語る。年間100件ほどの相談があるという。

今後については「安全・高品質・安価な医療機器を提供するメーカーとしての事業と、患者さんのために本当に必要な情報を提供する相談業務を二本柱にしていきたい」と、さらなる前進を目指す胸の内を明かす。

 

 

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