藏本孝二さん、東京五輪でメダル獲得を/パラ柔道コーチに就任


「礼節こそ柔道の基本」と藏本さん

「礼節こそ柔道の基本」と藏本さん



2020年の東京五輪パラリンピック柔道の男子強化チームコーチに就任した藏本孝二さん(65)。現役時代には1976年のモントリオール五輪で銀メダルを獲得したのをはじめ、国内外で数多くの実績を残した。大分県の出身だが、神奈川県警に長く勤務し、相模原市内に居住していた経験があるなど市域との縁も深い。五輪メダリストがパラリンピック柔道の強化コーチに就くのは初めてで、20人ほどの選手を指導する見込み。「目標は出場選手のメダル獲得と入賞」と、明るい表情で3年後を展望する藏本さんのプロフィールを紹介する。

(編集委員・戸塚忠良/2017年8月10日号掲載)

■木村政彦に師事

藏本さんは1951年生まれ、大分県日田市の出身。柔道を始めたのは10歳のころ。小学校の教頭先生が、学校の講堂で柔道を教え始めたのがきっかけだった。体は決して大きくなく、当時はとりたてて強い方ではなかったが、中学の頃から頭角を現し、次第に柔道に打ち込むようになった。

中学時には、柔道の指導者のいる中学校へ転向。親元を離れ厳しい練習に耐え、雨の日も風の日も駅から片道4キロの道を自転車で通った。「あの経験があったからこそ、その後の自分があったと思う」と回想する。

福岡県の南築高校を経て、拓殖大学に進学した。同大の柔道部監督は、全日本選手権大会を13連覇し15年間無敗のまま現役を退いた木村政彦氏。この監督のもとで猛練習に耐えた。

「先生は50代だったが、本当に鋼鉄のような体だった。道場を離れると優しい人柄だったが、柔道着を着けるとたちまち青春時代に戻った」という。

名監督の下で鍛錬した成果は、73年の全日本学生柔道選手権大会(軽量級)優勝という栄誉に結実した。学生柔道の頂点に立ったのである。

■モントリオール

卒業後、柔道を続けたいとの思いから神奈川県警に就職。74年のアジア選手権を制覇したほか、同年から76年まで全日本選抜体重別選手権を3連覇し、75年にはソ連国際大会で優勝。同年の世界選手権で3位入賞など多くの実績を重ねた。

そして五輪イヤーの76年。24歳の藏本さんは「これを逃したら、次はない」と覚悟を固めて猛練習に励み、積み上げた実績が決め手になってモントリオール五輪軽中量級の代表選手に選ばれた。しかし、日の丸を背負って戦う重圧は想像を超えるものだった。

「コーチから『センターポールに日の丸を揚げるんだ』と発破をかけられ、試合に臨むときの重圧はすごいものだった。文字通り金縛りにあったようで、体が思うように動かなかった」

結果は銀。センターポールに国旗を揚げる夢はかなわなかったが、誇りとするのに十分な成績だ。試合後、何より心を占めていたのは重圧からの解放感だったという。

「羽田空港に戻ったとき、五輪に向けていろいろとアドバイスしてくれた県警の先輩、笹原富美雄さんが温かいねぎらいの言葉をかけてくれたことが心に残っている」と語る。

■県警勤務32年

神奈川県警に勤務していた時期には柔道の指導などで相模原に足を運ぶ機会が多く、「遠くに山を望む風景が故郷の日田市と似ているので、とても気に入っていた」という。83年には西橋本に住まいを構え、相模原との縁を深めた。今でも日程があえば、上溝中の柔道クラブで週2回ほど指導にあたっている。

県警時代にはほかにも東京・巣鴨の大正大学で10年余り指導した経験があり、教え子の一人にパラリンピック日本代表監督の熊谷修さんがいた。また、大正大の柔道部では視覚障害者が練習することもあった。

32年間勤めた県警を早期退職して故郷の日田市天瀬町に帰ったのは53歳のとき。民間の会社に勤め、母校の南筑高校で後輩の指導にあたる日々を過ごした。

■コーチ就任

その後、教え子の熊谷監督が恩師の藏本さんに「パラ柔道のコーチを引き受けてほしい」と依頼したのは、恩師の指導法が視覚障碍者にとって理解しやすいはずだと考えたからに違いない。

しかし藏本さんは「もう若い人の時代」と一度は断った。だが、リオパラリンピックのパラ柔道で見事に銅メダルを獲得した広瀬順子さんの子どもが「金メダルを取るって約束したのに…」と泣きじゃくっていたテレビ番組の一シーンを思い出し、「日本選手に金メダルを」という気持ちが高まって引き受けることにした。

パラ柔道のルールや階級区分は健常者の柔道と変わらないが、大きな違いはたがいに組み合った状態で試合が始まること。藏本さんは5月の合宿で選手と接したが、「そのとき感じたのは、選手みんなが絶対にあきらめないことだった。鮮やかな投げ技を決める選手もいて、こちらが学ぶべきこともあると感じた」という。

3年後に向けて難しい役割を担うことになった銀メダリストは「柔道の基本だけでなく、自分が経験したことの全部を選手たちに伝えたい。日本で開催される五輪パラリンピックだから、みんながメダルを取れる手伝いができればと願っています」と、はつらつとした口調で抱負を語る。

 

 

 

 

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